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片山真理の
あゆみ
義足との出会いから、芸術との出会い、進学、結婚、出産、アーティストとしての苦悩と飛躍、ハイヒール・プロジェクトの再開……そんな片山真理の半生とともに、彼女が生活の中で感じてきたこと、さまざまな岐路で考えてきたことを綴っていく。
PROFILE
片山 真理
1987年群馬県出身。2012年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。自らの身体を模した手縫いのオブジェ、ペインティング、コラージュのほか、それらの作品を用いて細部まで演出を施したセルフポートレイトなど、多彩な作品を制作。アーティストとしての活動に留まらず、歌手、モデル、講演、執筆など、幅広く活動している。
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2022年
「MARI KATAYAMA」
(カウナス・フォトグラフィー・ギャラリー、カウナス、リトアニア) -
2019年
「第58回ヴェネツィア・ビエンナーレ」(ヴェネツィア、イタリア)
「Broken Heart」(White Rainbow、ロンドン、イギリス) -
2017年
「無垢と経験の写真 日本の新進作家 vol.14」(東京都写真美術館、東京)
「帰途 -on the way home-」(群馬県立近代美術館、高崎) -
2016年
「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、東京)
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2013年
「あいちトリエンナーレ2013」(納屋橋会場、名古屋) など
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主な出版物
『GIFT』 2019年 United Vagabonds刊
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主な受賞
2020年 第45回木村伊兵衛写真賞
2019年 第35回写真の町東川賞新人作家賞 -
主なコレクション先
テート・モダン(ロンドン、イギリス) /森美術館(東京)/東京都写真美術館(東京)
義足なんて
大嫌い
「義足にしたい」。そう言い出したのは、幼い頃の片山自身だったという。みんなと同じ靴が履きたい。みんなと同じように遊びたい。手術の恐怖よりも、みんなと同じになって、みんなとの距離を縮めたいという気持ちの方が強かった。しかし、義足になっても悩みは尽きない。やっと身体に合った義足ができても、成長期の身体はどんどん変化していき、痛みを生む。調整のため群馬から東京の義肢製作所へ通う日々。素晴らしい技術を持った義肢装具士と出会い、義足になってできることは増えたけれど、思っていた「みんなと同じ」にはなれなかったし、周りの自分を見る目も変わらなかった。「義足なんて大嫌い」。生活の中で最も身近な道具に対して抱く感情は、信頼でも愛着でもなく、嫌悪だった。幼い片山の行動は内へ内へと向かい、好きであった創作活動に没頭していった。
愛して あげたかった
高校に入ってからはSNSで多くのアーティストたちと接点がつくれるようになり、学生ながら創作活動の幅を広げていった。義足に初めて絵を描いたのも、この頃だった。「地に足が着くように」との願いを込め、地に根付いた植物をタトゥーのように義足へ描いた。身体性を表現したと語る一方で、片山は当時の感情を振り返る。「義足を愛してあげたかったんだと思います」。いつも痛みで自分を悩ませる存在でありながら、それなしには歩くことができない最も身近な道具。一生付き合っていく義足を少しでも愛してあげることができれば……そんな想いが彼女の筆を動かした。
そして、片山の作品は「群馬青年ビエンナーレ」で評価され、奨励賞を受賞。その後、A/O入試にて群馬県立女子大学の文学部美学美術史学科に進学することとなった。
閉ざされた道、
開かれた道
大学では、美術の本を読み倒して勉強と創作活動に励み、そしてよく遊んだ。「無駄なことが一つもなかった」と片山は大学生活を懐古する。4年間、アートについて学び、創作活動を追求していったが、片山が進路で求めたのは安定だった。東京で就職先をいくつも探したが、障がい者というだけで道が閉ざされることがほとんど。地元群馬県の障がい者雇用先で働くことを決めようとしていた時、母から電話が入った。祖父が入院し、先が長くないという知らせだった。元々、水墨画を描いており、片山の創作活動を応援してくれていた祖父を、彼女は何とか元気付けたいと思った。「おじいちゃん、私、日本一の芸大に行くよ!」。咄嗟に出た言葉だったが、その言葉通り、片山は東京藝術大学大学院を受験。祖父は2次試験の直後に亡くなったが、彼女は見事合格して祖父の旅立ちに花を添えた。
”identity, body it. -curated by
Takashi Azumaya-
Installation view at nca | nichido contemporary art, 2010
アーティスト
として
自分にできること
進学後、展示会に参加して片山は初めて自身の作品を売ることとなった。「買ってくれた人と話をした時に思ったんです。お金を出して自分の作品を買ってくれた人に対して、私はアーティストと名乗る責任があると」。アーティストとしての自覚が芽生えた瞬間であり、自身の生きていく道が見え始めた瞬間でもあった。
この頃から、学費と生活費を稼ぐために、片山はジャズバーで歌うようになった。大好きな歌うことで稼ぐこと、自分の力で稼ぐことが嬉しかったと片山は語る。そして、ある夜に事件は起きた。
”identity, body it. -curated by Takashi Azumaya- Installation view at nca | nichido contemporary art, 2010
片山が歌っていると、酔っ払った客から酒をかけられた。「ハイヒールを履いていないような女は、女じゃない」。ロングドレスに隠れて義足は見えていなかったが、その言動が悔しかった。気持ちをグッと抑えて「失礼しました」と言ってその場を後にし、片山は唇を噛み締めながら夜が明けるのを待った。始発電車で向かったのは、義肢装具で長年お世話になっている田沢製作所。「ハイヒールを履きたいです!」。開口一番に想いを伝えた。ハイヒールを履くためだけに義足用の足部を輸入し、やっとの思いで歩くことはできたが、市販のハイヒールは1時間ほど履くとすぐに潰れてしまった。「なんで、義足だとダメなんだ」。その疑問を解決するために、片山は何人もの専門家の元に行き、科学的な立証を追求した。
その活動の中で、自分と同じ境遇や苦しみを持ち、ファッションを楽しむことに不自由さを感じている人たちと出会い、対話を重ねていった。「好きな服や便利な服など、自分で選んだ服を着て出かけることは、社会との接点を持つこと。ファッション=贅沢品なの? 障がい者は贅沢をしてはいけないってことなの?」。片山の中にあった想いはより一層強くなっていった。「自分と同じ境遇の人たちと対話をする中で、私がハイヒールを履くことで、みんなを生きやすくできるかもしれないと思ったんです」。そこから、片山はハイヒールを履いて街を歩き、ハイヒールを履いて歌った。これが、ハイヒール・プロジェクトの始まりである。
I’m wearing little high heels, 2011 ©Mari Katayama
[L to R] 25 days in tatsumachi studio / Atsumi Records #002, 2015 ©Mari Katayama high heels, 2012 ©Mari Katayama 30 days in tatsumachi studio, 2015 ©Mari Katayama
育児と創作、
孤独との戦い
アーティストとして活動を続けながら、片山は結婚、そして出産をした。周りからは、出産に対して懐疑的な言葉を向けられた。誰も助けてはくれない、家族だけで何とか乗り越えなければ。そんな想いが強くなると、どんどん孤独になっていった。
そして、ある日、娘を抱っこした時、膝折れをしてしまい転倒。咄嗟に娘を庇ったことで、お互いケガはなかったが、それ以降怖くて抱っこができなくなった。日中は一人で子育てをするものの、義足であることで思い通りにいかないことの連続。心が折れてしまうことも一度や二度ではなかった。そんな辛い葛藤の中でも、片山は創作活動を継続。「May You Live in Interesting Times」というタイトルを掲げた第58回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に出展。写真集『GIFT』と、ヴェネツィアでの展示が評価を受け、第45回木村伊兵衛写真賞を受賞。本格的に世界から認められるアーティストとして、大きな注目を集めるようになった。
二人三脚での
大きな一歩
2022年1月、ハイヒール・プロジェクトの再開に向けて、片山は動き出した。同時に、彼女は自身の活動の可能性を広げるために、新たな義足を求めていた。その時に出会ったのが電子制御義足膝継手『ALLUX2』だった。初めて履くこととなったこの電子制御の義足とナブテスコとの出会いが、彼女の生活とアーティスト活動を大きく変えた。それまで毎日感じていた膝折れの恐怖から解放され、歩くことが楽しみに。あれほど大嫌いだった義足を、いつしか相棒と呼ぶようにすらなったのだ。そして、ナブテスコも、片山の「ハイヒール・プロジェクト」の目的と考えに深く共感し、2022年9月には同プロジェクトへ協賛することを決定。片山真理とナブテスコ。新たなコラボレーションによって、「選択の自由」「理想を抱く自由」に向けた大きな一歩が踏み出された。