金メダリストインタビュー

「最初は手投げでした」と
「塩ビ管を使って投げました」

ーまずおふたりが車いすカーリングに触れたきっかけを教えてください。
中島洋治選手(以下中島)40歳の時に同じ地域の車いす仲間に誘ってもらって「カーリングホールみよた」(長野県御代田町)で初めてプレーしました。カーリングというスポーツの名前だけは知っていましたけれど、具体的なことは何も知らなかったです。
ー第一印象としてはいかがでしたか?
中島当時はまったく情報がなく、誘ってもらった仲間もあまり分かっていなくて、「自分たちのルールはこんな感じだよ」と、独自のルールや練習方法を教えてもらいながらやっていました。キュー(デリバリースティック投石時に使用するスティック)でなく手投げでしたから体勢がきつかったけれど、面白かった記憶はあります。
ー小川選手はいかがですか?
小川亜希選手(以下小川)車いすに乗る1年半くらい前に、カーリングの体験会がスカップ(以前の軽井沢カーリングホール)であって、それに友人と一緒に参加したのが最初でした。講師の方がうまく盛り上げてくれてそれがすごく楽しくて、初心者も出場できるオープン大会に経験者の方に混ぜてもらって参加し、週末は旅行感覚で軽井沢に来る。そんな感じでした。
ー車いすカーリングをする前に既に体験をされていたんですね。
小川そうなんです。それから2年経たないうちに怪我をしてしまい、長野県内の病院に入院していたんですけれど、その時に飯野さん(飯野明子コーチ)がよくお見舞いに来てくれました。「車いすでもカーリングはできるみたいだからやってみたら?」と声をかけてくれたのが、車いすカーリングへのきっかけです。
ー実際にプレーしてみていかがでしたか?
小川楽しかったのですが、当時はまだチームもなくて、飯野さんと一緒に健常の選手に混ぜてもらって、練習というよりお邪魔して遊んでいた感じです。それこそスティックなどの道具もなかったので、工務店で働いている知人が水道管に使っていた塩ビ管をバーナーで炙って作ってくれて、それを使っていました。
ー試行錯誤しながら強化していったんですね。おふたりはいつ頃から面識があったのですか?
小川(車いすカーリング)日本選手権ですかね?
中島そう、2004年の日本選手権で対戦したのが最初です。まだ埼玉と信州にしかチームがなかった頃です。
ー第一回目の日本選手権ですね。競技を始めて1ヶ月の中島選手擁する信州チェアカーリングクラブは優勝し、中島選手は2005年の世界選手権に日本代表の一員として出場しています。
中島スコットランドのグラスゴーでの大会だったのですが、その時は3勝できたんです。当時のメンバーで「じゃあ次の年、その次の年」と1年後の目標と計画ができたことで、みんなの意識が高まっていきました。
ーそのメンバーにフィフスとして加わる形で、小川選手は2010年の世界大会に出場しています。日本代表のキャリアを背負うことについてご自身はどう捉えていましたか?
小川先ほどもお話ししたように、最初は上尾市にあるリハビリセンター(埼玉県総合リハビリテーションセンター)で会った周りの子を「カーリング、楽しいから行こうよ」と誘いながらみんなでワイワイと年に数回、オープン大会に参加する程度だったんです。競技としてなんて考えたこともありませんでした。でも、信州(チェアカーリングクラブ)の方に声をかけていただき、自分も試合に出る可能性があるので「こんな下手くそではいけない」と感じて、「もっとうまくなりたいな」というスイッチが入ったのだと思います。
ー少しずつ世界を意識し始めたおふたりが、ミックスダブルスのペアを組んだのは、どういう経緯があったのでしょうか?
中島自分は2014年から埼玉のチームに入って小川さんと一緒にやっていたので、車いすミックスダブルスができると決まってからは、自然に一緒にやるような感じでした。
ー2025年5月の「ナブテスコ 日本車いすカーリング選手権」を制した「ease埼玉」ですね。チーム結成とペア結成が同時期なんですね。初優勝おめでとうございます。
小川ありがとうございます。
ー少し話が逸れるかもしれませんが、今回の日本選手権はミックスダブルス世界選手権で金メダルを獲得した小川・中島ペアの凱旋試合の意味もあり、メディアや観客が例年よりも多く集まったと聞きました。
中島そうですね。メディアは多かったように感じました。でも、我々だけではなく出場するチームにまんべんなく取材してくれたので、そういう点では非常に良かったですね。個人的には4人制の日本選手権では結果が出せていなかったので、気持ち的には違う感じで挑みました。
ーおふたりが世界一になったことでチームメイトにもいい影響があったという論調の記事もありました。
小川試合自体はいつもどおりプレーできたんですけれど、チームメイトは「俺たちも頑張る」と何度も言ってくれていたので、雰囲気良く戦えたのが良い結果に繋がりました。

史上初の金メダル獲得で
いちばん泣いていた意外な人物

ーミックスダブルス世界選手権の話を聞かせてください。2024年の江陵(韓国)大会では4位。そして今年のスティーブンストン(スコットランド)大会では金メダル獲得。躍進の理由をどう振り返りますか?
中島目標の立て方が良かったのかもしれません。まずは予選を突破してベスト8に入る。最低限の目標を持って一試合ごとに集中できていました。
ーただ、その予選ではブラジル代表に世界選手権初勝利を献上するなど決して楽な道中ではありませんでした。
中島そうですね。でも結果的にはブラジル戦の勝敗よりも、その次のアメリカ戦が(予選突破に)重要な試合だったので、気持ちの切り替えはうまくできました。
ー小川選手は勝因をどうお考えですか?
小川(江陵で)4位の後に「次はメダルを獲りたい」という明確な目標ができて、それに向けて強化合宿や練習をしっかり計画できたのが良かったと思います。
ーその甲斐あって準決勝の壁を超えて決勝に進みました。地元スコットランド代表との決勝は11-2の快勝。序盤からリードを奪う展開となりました。正直、試合途中で「これは勝ったな。金メダル獲ったな」などと頭をよぎったりしましたか?
中島しました。(3点を獲得した)3エンドですかね。
小川3エンド? 本当に? 私はブラジル戦の悪夢があった(最大9点リードからの大逆転負け)し、相手も4人制をやっている実力のあるペアだったので「何があるかわからないからちゃんと集中しよう」と自分に言い聞かせながらプレーしていた記憶があります。
ーペアでも心持ちが同じというわけでもないのは意外ですね。
小川でも、それが良かったのかもしれません。だからといってすごく緊張したとかプレッシャーがあったとかではなく、相手チームも観客もいいショットには拍手をくれたので、いい試合ができたんだと思います。
ー決勝を制して、お互いにハイタッチをしたりハグをしたりなど、喜びを分かち合ったんですか?
中島勝っても直後に「イエーイ」みたいなのはなかったですね。
小川そうなんです。飯野さんと詠理ちゃんのコーチふたりはコーチボックスで抱き合って泣いているし、中島さんは観客に挨拶するためにスーッと行っちゃうので、「あ、私も行かなきゃ」と慌ててついていった覚えがあります。でもコーチが私たちよりも喜んでくれているのを見て嬉しさが込み上げてきました。
中島毎試合(コーチボックスが)盛り上がっているんだよね。
小川(予選最終戦で)アメリカに勝った時も(準々決勝で)カナダに勝った時も泣いていて。ふたりともいつも私たちのために時間を使ってくれているし、恩返しという意味でも勝てて良かったです。

「ここではちょっと」と
お互いがお互いのキャラ説明拒否!?

ー改めてお互いがどんな人物なのか聞かせてください。
中島ここではちょっと(話せない)。
小川ここではちょっと。
ーおふたりとも、そんな言えないようなキャラクターなんですか?
小川いえ、そんなことはないのですが、車いすカーリングは選手も関係者もいつも一緒にいるからみんなお互いを知っていて「中島さんってどんな人?」っていう質問自体をあまり受けたことがないんです。
ーなるほど。では、選手としてどんな部分に助けられているというのを教えてください。
中島やっぱりラストロックを決めてくれているので感謝しています。ミックスダブルスは石が溜まる展開が多いので、ドローで追加点、あるいはガードを置くといった、こちらが先手を取れている展開にはしたいなといつも心がけています。
ーなるほど。逆にピンチを残してしまうケースでは「申し訳ないな」と感じるんですか?
中島この(相手の)石を出せば(凌げる)、という時は「テイク決めてね」と。
小川「お願い!」って思ってる?
中島「できるよね?」って思ってる。
ー小川選手は1投目をどのような心境で投げていますか?
小川やっぱり一投目が決まるとその後の展開が楽になります。なるべく有利なところに石を置きたいと思っているのですが、うまくいかないことも多いですね。世界選手権では中国戦やスイス戦で苦しい局面にしてしまった反省があります。
ー中島選手は20年以上前から日本代表のキャリアを持ち、中長期的に振り返るとうまくいかない時期、勝てなかった苦しい期間もあったと思います。そういう時にどのようにメンタルを保っていたのか。折れずに挑戦できた理由があれば教えてください。
中島先ほどもお話ししたように、勝てない大会も多かったですけれど、「次の年、次の年」と単純に翌年の勝ちを追い求めながらカーリングできていたので、それが良かったのかもしれません。世界で戦えている自分は誇らしいですし、いい刺激を受けることができました。何よりカーリングはいつでも楽しかったですから、飽きも来なかったし「勝てないからやめちゃおう」という気持ちには一度もなったことがありません。
ーその楽しい車いすカーリングの今後の課題をどこに感じていますか?
中島やはり競技人口ですね。2010年くらいの頃は最大でチームも11あって選手も60人くらいいたのですが、今はチームも選手もその半分くらい。車いすカーリング的にはちょっと寂しい状況です。ここでもう一度、若返り含めて人数が増えたらいいなと(願っている)。だからこうして露出させてもらえるのはありがたいです。
小川競技人口が減っている現状ではありますが、今もプレーしているメンバーはみんなカーリング好きで「この楽しさをもっと広げたいね」という意見が多いです。こういうインタビューを読んでいただいて、多くの方に興味を持ってもらえるのが理想です。
ーそのためにも「車いすカーリングってこんなスポーツで、こんな魅力があるよ」という部分を教えてください。
中島とてもユニバーサルな競技ですから、健常者と同じルール、同じ舞台で対戦できるのは魅力です。実際にオープン大会などではそういう試合も多いですし、「障害者スポーツ」とくくってしまうとどうしてもキャパは増えないですけれど、健常者と対等にプレーできれば楽しみは2倍にも3倍にもなってくる。まずはそういう大会を知ってもらい、実際に見てもらってアピールしていきたいですね。
小川ゲームとして最後まで何が起こるか分からないところと、個人の技術とチームバランスも必要なゲーム性を持つ部分が特に面白いです。あとは小さい子から年配の方まで対等に幅広くユニバーサルにプレーできるのは私も大きな魅力だと思っています。
ーカーリング界全体に視点を広げると、近年は人気チームも増え、横浜でのアリーナ開催も成功しました。カーリングは次のフェーズに向かっているのかもしれません。今後、どんなふうに発展していくのが理想ですか?
中島車いすの日本選手権でも若い人を見かけるようになりました。横浜での日本選手権もそうですが「観るカーリング」に対してのファンがつき始めたように感じています。それがもっと拡大していくといいですね。
小川最近はテレビ中継やネット配信なども増えましたが、さらに視聴環境が広がっていって、見た方に「やってみたいな」と思ってもらえるといいですよね。
ー今日はありがとうございました。最後にそれぞれご自身の夢や目標を教えてください。
中島直近では、また世界で今年のようないい成績を残すこと。国内では今年、4人制で初優勝できたので、そこでも連続優勝ができるように強化していきたいです。
小川私も同じです。カーリングはずっと長く続けられる競技なので、楽しみつつミックスダブルスでも4人制でも結果が残せればと思います。あとは今後、辰巳(アイスアリーナ)のように新しいリンクができていき、体験会やイベントを通して特に若い人が増えるといいなと思っています。ぜひアイスに遊びに来てください。

プロフィール

  • 中島洋治・なかじまようじ

    1964年長野県南佐久郡南相木村出身。バンクーバー2010パラリンピック冬季競技大会日本代表。第21回ナブテスコ日本車いすカーリング選手権ではease埼玉の司令塔として初優勝に導いた。好きなスポーツは野球、サッカー。好きな球団は巨人。好きなサッカー選手は中村俊輔。ミネベアミツミ株式会社勤務。
  • 中島洋治
  • 小川亜希・おがわあき

    1975年埼玉県鴻巣市出身。バンクーバー2010パラリンピック冬季競技大会日本代表。中島と同じくease埼玉のチャンスメーカーとして日本選手権初制覇に貢献。好きなカーリング選手はオスカー・エリクソン(スウェーデン代表)。好きなスポーツはバレーボール。趣味はドライブ。埼玉県北本市立宮内中学校勤務。
  • 小川亜希
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